実話小説『そんな、アホな!』 

 時は、1990年(平成2年)7月のこと。

 人生には、時折わかれ道(分岐点)がある。
自分でこれから歩いて行く道を決める場合と、意図に反して他人が決める道とがある。


 これは、実話であり個人情報の観点から特定できないように匿名で記載します。




第1章 死神が僕についた?

第2章 大阪の人は、我慢強いね!

第3章 死神が僕から去っていった!

第4章 3ヶ月で全身麻酔手術が6回!

第5章 10月堺まつりの日に堺へ転移した

第6章 刑事裁判の証人となる

第7章 あるチームから鈴鹿耐久レースに招かれる

第8章 スポンサーがついた

第9章 そんな、アホな!




第1章 死神が僕についた?

 1989年鈴鹿8時間耐久レースで10位に入賞してそれからの仕事(レース)は面白いように進み1990年にはTT-F3クラスにも参戦を初め6月の鈴鹿200Kmレースではヤマハ、Kawasaki、HONDAのワークスマシンとトップ争いをして4台が混戦になり4位に入賞、この後の筑波サーキットでは3位表彰台に立つなど信じられないほど人生がうまくいっている誰かに運勢を押し上げられているような感じがした。

 そして1990年7月3日に僕は鈴鹿8時間耐久レースの打ち合わせの為、東京六本木にあるスポンサーの所に行く予定だった。
もちろん、新幹線か飛行機の予定であった。しかし、会社のトラック(2トントラックのトランスポーター)が埼玉県に7月2日の夜に出発するということを聞いて
「nimoも東京の六本木に3日に行く予定で、会うは夜なので埼玉まで一緒に行こうか?」と言ったのである。最初の運転者YO氏が行くはずだったのが出発直前にYA氏に交代したのだった。

YA氏は高速道路は走ったことかないと僕に言った。
僕は
「下道より安全だよ、じゃ大津SAまで僕が運転するからそこから海老名SAまで運転して都内は僕が運転するよ」トラックにはもう荷物が積まれていてあとは乗り込むだけの状態であった。

 出発したのは7月2日午後11時ごろ、会社は東大阪の旧外環状線沿いにあった。
運んだ荷物は1989年に鈴鹿8時間耐久レースで10位に入ったことでチームオーナーからの僕へのプレゼントであったエンジンダイナモ(動力測定器)であった。
価格2,000万円はする品物だった。

 オーナーは
『お前は、測定器や機械も使わずに手でチューニングをしてよくオートバイを速く走らせるな、エンジンダイナモがあったらもっと速く走らすことできるやろ』と言ってくれたものでした。

そして、いつもオーナーは
『お前も敵が多いな』と言ってはニコニコしていて一言も文句を言われたことが無かったのです。

しかし、この年の6月下旬に心不全で亡くなってしまいました。

 エンジンダイナモはまだ設置しておらずメーカーが手付金もらっているので返品してもらったら返金するとのことで埼玉県までエンジンダイナモを運ぶことになったわけです。重量はほぼ2トン近いと思います。それを2トン車で運んだ訳です。

 僕が最初に運転して思ったのはかなり重いな、しかもかなり後方に積んでいるなハンドルが軽い「気を付けなくては危ないな」とゆっくり法定速度内で走ろうと、しかも7月2日はまだ梅雨の真っただ中で大阪を出発したときは小雨が降っていました。中央大道りから中央環状線に右折するときに偶然以前僕が担当したH・Kライダーと出会います。H・Kライダーは
『気をつけてくださいね』と・・・

 ゆっくりと近畿自動車道から名神高速道路入り大津SAに着いたのは日付が変わって7月3日の午前0時10分頃でした僕がレースに行くときは必ず大津SAで止まり食事をします。パーキングエリアに入いろうとした時はかなりの雨が降っていました。

その雨の中に立っていたのは段ボールに
【用賀】と書いたボードを首からつるし、ずぶぬれで立っていた外人です僕は横目で見ながらパーキングにトランスポーターを停め、トイレ、レストランと向かいました。
食べるメニューはいつも決まっていて
「ビーフシューセット」さて食事を早く済ませて東京用賀で降りて環八で埼玉県に出る予定です。環八は時間を問わず渋滞する道なので埼玉方面に抜けるのは3時間程度いるのかなと予想していました。
YA氏に
「燃料の関係もあるし海老名SAで一回休憩をしてそこから先到着するまで僕が運転するよ」『nimoさん僕、高速運転したことないんです』と不安そうに「ダメやったら次のSAで交代するよ」と言いつつレストランを後にしました。

※nimoとは私のペンネームである。

パーキングに停めたトランスポーターに乗り込み動きだした時、僕が死神に取りつかれた瞬間であったと思いました。

先ほどの外人がまだ、ずぶ濡れ状態で立っている・・・
運転しているYA氏に
「あの外人、用賀まで載せていってあげようか」、YA氏は当然ながら嫌とも言わず『ハイ』とうなずいた。
トランスポーターを外人の横に止め
「ヨウガ?OK!、カモン!」と言い真ん中に乗せてあげました。(2トントラックなので3人乗り)話をすると片言の日本語で自分はイスラエル人で25才、留学、東京の彼女に会いに行くところだったと・・・
疲れていたのかいつの間にか僕とイスラエル人の留学生はウトウト寝てしまいました。

トランスポーターがSAに入った時に目が覚め足柄SAという看板が見えたのだ、ここでトイレ休憩をしてここからは僕が運転交代しようかと言ったときYA氏は
『まだ大丈夫ですよ、海老名で交代してください』と時間は午前5時30分であった。僕はすぐに寝てしまい一番左の助手席に座ってすぐに寝てしまいイスラエル人は真ん中席に運転はYA氏だ。足柄SA出て5キロ(東京用賀から76.1キロポスト)地点で僕は完全に熟睡していたそこにYA氏が『あっ~』という声が聞こえトランスポーターの後部が大きく右に流れたこの時僕はまだ目を開けていなかった。

そして間もなくドーンという音が・・・

 僕が目を覚ましたとき、追い越し車線にあぐらをかいたような姿で両手で身体を起こすような形で座っていた。目を覚ますと同時に左側走行車線に11トントレーラが急ブレーキを踏んでちょうど僕の横に止まり運転手が
『お前、生きているんか?』とまんまるした目で僕を見ていたのだ。
トレーラの運転手は、おそらく僕の状態を一部始終見ていたのだとおもう。
400mくらい前に僕が乗っていたトランスポーターが中央土手付近で横倒しになっているのが見えた。

時間は午前5時40分頃だという。

足柄SAを出て10分ほどしかたっていなかった。

 現在はこの付近は事故が多いため上り線と下り線は別のルートになっているが当時は別々にはなっていなかった。

 しばらくしてまずバトーカーが来たと記憶する。約10分程度できたのかな。
おそらく足柄SAに待機していたのだろう。

 警官が駆けつけてきてまず
『運転者はお前か』と言ってきた。

「いや僕は助手席です」と言い警官にジーパンの後ろポケットに入れていた財布を出して免許証を見せる。

ここからの意識がなくなっている。

 しばらくして目が覚める。運転手であるYA氏が僕のところに来たのであぐらをかいている足、右足首が左の肩付近にあり、左の足首が右の肩付近にあった。自分でも折れているのは分かったのだが両手で支えているのは体制的に苦しいのでYA氏に
「足をまっすぐにして!」と言って足をまっすぐにしたとき、水道の蛇口を全開にしたように両足から血液が噴出したという。

僕はおそらくその瞬間に血圧が下がり気を失ってしまったのである。

次に目を覚ましたら救急車に乗せられていた。
お腹が痛くなり便意をもようしたのだ
「すいません、トイレしたいのでSAによってもらえます?」と救急隊員に言ったのです。

自分の状態がどのようになっているのかも分らずに・・・

また、気を失ってしまった。

 次に目が覚めた時、自動ドアの扉が開くのが見えたそこには
【第三次救急救命センター東海大学医学部付属病院】の文字が見えたのである。看護師さんが名前を呼ぶ『nimoさんわかるここは病院』と、僕は両親が魚市場をしているので今ならいるから店の電話番号を一番に伝え、自宅の電話番号を次に自宅の住所を伝える1分くらいだっただろう。名前と住所は免許証があるからわかるはずである。

看護師さんが僕の口にマスクをあてる、笑気ガスだと思う。10秒もかからなく寝てしまう。次に目を覚ました時そこには親父の姿があった。

【第三次救急救命センター東海大学医学部付属病院】までは本来厚木インターまで行ってから戻る形で病院までいっていたという。
ちょうど一年前に高速バス停から病院までの道が新設されたと聞いた。病院の横に東名高速が走っていたのである。それでも35キロほど東名を走ったことになる。

もし、バス停からの道がなかったら僕は確実に死んでいたと思う。

【第三次救急救命センター東海大学医学部付属病院】に着いたのは午前6時40分だと後で聞いた。事故にあってからちょうど1時間だ。

親父の店に午前7時頃電話があり

『息子さんが交通事故にあい両足を骨折しているからすぐに来てほしい』
と病院までの行き方を聞いて自宅に一旦帰宅して着替えてお金を100万円を持って新幹線で小田原駅まで行き、私鉄で伊勢原まで来たという。
電話があった際は、単なる骨折かと思って来たらしい。

親父が病院に着いたのは午後4時頃、受付で聞いたら
僕は亡くなったと言われたらしい。

 親父はその時に、寝台車を頼んで堺まで連れて帰ろうと思ったと、のちに僕に話していた。

 霊安室に案内され顔を確認すると別人だった。

ICU(自分は手術室のように思えた)で僕の前を何回も素通りして探し回ったのだという。当たり前だ顔面裂傷で64針縫っていて腫れまくっていたのだ。自分の息子が判断できなかったという。
今、改めて顔を見ると鼻がゆがんでいるきっと折れてたのだ!

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第2章 大阪の人は、我慢強いね!

 さて、僕の状態はというと。

●右大腿骨開放骨折2カ所
 (右大腿動脈切断)
●左大腿骨骨折
●左下腿部開放粉砕骨折
 (左下腿動脈切断)
●骨盤3か所骨折
●顔面裂傷
●内臓破裂
●右肺圧迫
●出血性ショック

まだ、細かく言えば切りがないくらい。

この状態を僕は
「土壺」(ドツボ)と思ったのである!

 どうして、助かったのかというと。
この病院は医師、看護師の交代時間がちょうど午前7時であった。
つまり2倍の人員が病院に運ばれた時にいたわけで当直だった医師と看護師は帰らずに治療をしてくれたのだ。

まず、出血が止まらないので両足切断の案が出ましたがのちの主治医になる医師が何とか切断せずにできることをしてもみようと言ったとの事です。

しかし、問題がありました。
内臓から出血しているおそらく膵臓破裂の可能性があると、患者の体力がどこまで持つかが問題だ。

ケガの症状を細かく説明すると、右大腿部が股関節のところと膝関節のところで骨折して皮膚を突き破り大腿骨が飛び出してそこに土とか砂利がこびり付いていて動脈が切断されてそこからの出血が止まらなかったこと。

左大腿骨は股関節のきわで骨折、左下腿は粉砕開放骨折この部分は皮一枚でつながっている状態で動脈切断。

骨盤は3か所骨折。

顔面は64針縫う裂傷。

出血多量での出血性ショック等である。

そして、緊急手術が始まり午後4時までかかったという約9時間である。

あの頃は、記憶ではCT、MRIなどはまだなった時代であると思う。

レントゲンを300枚以上を4ヶ月で撮っていた。永久保存と書いてあった・・・

 親父への説明は、
『今夜または明日、明後日が山場で、親族の方で会いたい方は、早く来てください』の言葉でした。

すぐに、両足切断すれば助かる可能性は上がるが内臓が破裂している可能性があるため絶対助かるとは言えないとの見解です。

 ここで親父が
『なんとか息子の足を切断しないでほしい。命にかかわるなら切断もしょうがない・・・』

 ただ単なる骨折と聞いてなかば安心(これであいつもちょっとはゆっくりできるな)していた親父は、病院に着いたら死亡したと言われ、かなり焦ったという。間違いとわかっても医師の説明でとりあえず僕の妻と兄に連絡を取り翌日病院へ来るように連絡を入れました。

 長男が生まれて6か月、

 僕が30才の夏のこと。

 私の状態はというと、頭が一番下側に来るように足を30度ほど高くしていた、それは出血がひどく血圧が低くなり脳に血液が行かなくなり脳死になる危険性を避けるためだでした。

 35才くらいだろうか医師が僕に初めて話かけた
『nimoさん、この状態は理解できるかな』
「ハイ、あのう右腕が固定されていますが右腕も骨折しているのですか?」と聞いた
『モニターが見えるだろう、ここに30という数字が見えるね、これは血圧です。この数字が60まで上がったらあなたは助かるかもしれない、輸血のパックが見えるね、いま10ヵ所から同時に輸血しているがもし輸血を止めればnimoさんはすぐに死んでしまいます』
と僕の目を見てハッキリと言った。

『右腕は輸血の為に固定しているだけ、しかし、大阪の人は我慢強いな痛いと一言も言わなかったからな、この病院は始まって以来両足骨折で運ばれてきたのはnimoさんで3人目だけど、こんなにひどいのは初めてだけど』

僕は普通にしていてもモニターが見える状態だった、そうか60に上がるまで頑張らないといけないなと思いながら・・・

痛いと言ないのは、痛みを感じなかったためである。
ドーンというなにか重たい物に乗られている感じがして痛いという感じはなかったのである。

痛かったら間違いなく「痛ったい~」というがな~

事故から一か月過ぎたあたりから神経が伸び始め猛烈な痛みとなる、これはあとで説明することにしよう。

 それから、一晩持ちこたえた時に医師が

『右肺がつぶれて、水が溜まり肺炎になっていてまず右肺の手術をしてから人工呼吸器を7日間付けます』
と言って

僕に人工呼吸器のホースを見せた外径20mmくらいだろうか、これが3本入るという嫌とも言えずもう好きなようにしてと思うしかなかった。

吊るされていた点滴に麻酔薬を注入される30秒もしないうちに意識がなくなる。
この点滴に入れられた麻酔薬はすぐに右腕から入り血管の中に冷たい液体が身体中に回って行くのが良くわかった、一瞬で身体中に回ったのだ。

 さて、どれくらいたったのか意識が戻ったら口の中にホース3本が入っている。この7日間が僕には一番辛かったように思える。

僕はモニターの数字を見ているだけである時折30を下回り25くらいになる
「あれ、現実の見えている画像に真っ黒なカーテンが左側から閉まったり開いたりするな」僕はそれが全部暗くなったらたぶん自分は死んでしまうのだと考えながら真っ黒なカーテンが半分くらいまで閉まって来た。
自分にどれだけの保険があり死んだらいくら出て住宅ローンはなくなるから、残された妻と長男は無事に生活していけるだろうかとこの時間はかなり長かった。

血圧が30になると現実の世界が見えてくる30を下回ると黒いカーテンか左側からしまってくる。でも自分ではどうしようもないことは理解しながらこれは夢だと思い夢なら早く冷めてほしいなと・・・・

 長い長い7日間が終わったそして30だった血圧が徐々に上がり50程度まで上がったのだ。これで助かったとは思わなかった両太ももが腫れあがり2倍近く太くなっていたのだ、そしてまた麻酔薬が点滴に注入される、そう人工呼吸器が外されたのだ。
そしてすぐにベットがICUの片隅に寄せられ看護師さんが僕の実家に電話したのだ、僕に
『お母さんが出たから話して』「おかあちゃん、ごめんな事故にあっちゃった。お父ちゃんはここに来てくれたよ」と3分くらいだろうか話したのは。

これは人工呼吸器をつけると声帯にどうしても傷を付けてしまい呼吸器を外しても声が出なくなるのを避けるための病院側の配慮であった。そしてやっと血圧が60で安定する、この血圧とは高いほうの数値のことである。

通常100~120程度が今でやっと60になった医師かやってきて
『nimoさん、やっと60まで来たね、輸血量は3日間で32万ccだよ、あとはどれだけ輸血したのかは僕はもう勘定していない』と僕は+B型であった、しかし+Bの輸血パックが足らなくなり+O型も混ざっているという。通常の成人男性で全身の血液が4000ccくらいと説明された。

じゃ約80回以上(恐らく僕の血液はみんな入れ替わっているんだな)だ、あっ、もっとかな、もう好きなようにしてと思いながら・・・

そして、ベッドの右側には流れ出た血液を受けるバケツがあった。

 親父は事故があってから3日目に、病院医事室呼ばれて

『現在は自賠責保険の120万円は遥かに超えて1500万円を超えています、
今すぐ支払ってくれるか支払いが無理だったら転医してほしい』
と・・・

これだけは、知っていてもらいたい。
助手席ゃ後部座席に乗ると
法的に好意同乗と判断されて賠償金額を25~50%減額されるし、当然対人保険は使えない搭乗者保険は死亡で500万円という時代だった。
現在は人身傷害保険があり無制限というものができた。
あの時代は無かったのだ。そして自損事故だった。
もし相手がいたら相手の対人保険が使えたのである。

 親父は魚市場の理事をしていて当時怪我をした組合員が労災に入っていなくても2年間さかのぼり保険料を支払うと労災が有効になることを親父自身が手続きをしていたのだ。

会社の方に連絡を入れすぐに東○○労働基準監督署で番号をもらってきたのだ。

僕は契約という位置づけであった、現在は契約社員は会社の都合のよいように労働期間を設定するが当時契約は技術があれば雇い主と年俸を契約するのである。
条件を満たせば1本の年俸が可能であった。
100万円じゃないよ!
 
 病院も商売だ、労災なら一番手厚く支払いが病院側にいくのである相手は国だから。

そうして僕は手厚く看病と手術を受けることができた。

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第3章 死神が僕から去っていった!

 ICUに隣接している部屋に移された、そう10人くらいがベットに寝ていた。
その10人は悲惨であった20才くらいの青年は脊髄損傷で一生ベットに寝たままだとそうと看護師さんが言ってくれた。全員が死と向き合ってきたのだ。

僕はまだましかなと思いながら
「看護師さん、たぶん一緒に運ばれたと思うのですがイスラエル人の青年のことは知ってますか?」と聞くと、たぶん申し送りで僕がいつか聞くかもしれないと用意していたのだろう、すぐに答えが来た『外人さんはね、この病院に来ていなくて他の病院に運ばれたのよ』と、『ほかの病院に運ばれて元気だって』、すぐの回答に僕はピンときた、そう緊急手術の時にかすかに聞こえたのだ『痛いよ~、痛いよ~』と繰り返す外人の声が記憶がよみがえってきたのだ、あっ死んだんだと瞬間に理解した。

そう、イスラエルの留学生は事故から4時間後に亡くなっていた。

僕と30センチしか座席の位置がズレていただけで生死を分けたのだ、運転手はスリ傷だけであった。

留学生は車内に閉じ込められていたのである。

事故後90日程たってから当時の事故処理に当たった警察官2名が病室に訪れた。

警察官によると留学生は内臓破裂だったのこと。

あの事故の後ろで11台の玉突き事故があり6時間東名が通行止めになったとのこと。

警察官は一つだけ教えてほしいと

『nimoさんはシートベルトを締めていましたか?』

「足柄SAまでは確実に締めていました、しかしそこでトイレに行ってすぐ寝てしまっておそらくシートベルトはしていなかったと思います」
と言ったら一枚の写真を見せてくれました。

トランスポーターが横倒しでぶつかり助手席下側になって標識の基礎のコンクリートにめり込んで形がなくなっていたのです。

はっきりいうとシートベルトをしていたら確実に
即死だなと思いました。

 警察官は特にシートベルト装着違反とは言わなかったのです。

のちに運転手は
業務上過失傷害致死罪で起訴されることになります。

この時の裁判の様子はあとで詳しく書くことにします。

 
そう、大津SAで留学生に声を掛けていなければ彼は死ぬことはなかったのだ・・・

つまり、僕についていた死神が事故後イスラエル人の彼だけ連れて行ったのだ。

 人生とはおかしなものだ、調子が良く何もかもうまく言っている僕に神様はきっとゴツンとゲンコツをしたのかもしれない。

ただ、レースを職としてから初めて大島正というライダーのメカから始まったのである。彼はノービスクラスのチャンピオンになったが交通違反で運転免許が取り消しになったのである。

運転免許書はレース場の車検の際にツナギ、ヘルメット、グローブ、ブーツと免許証が必要なのである。クラスは一番上の国際A級となったが免許がないためにレースに出れないという事になった。

彼は離婚していた母方の養子となり別姓になり免許証を取得したのだH系販売店からワークスマシンRVFに乗って鈴鹿8時間耐久レースに出ていた。
8時間耐久レースでは不運にもガソリンチャージの際に静電気が火種となりピットでマシンが燃えてしまったのである。

僕と組んだ時のマシンはVF750Fであった。
750ccで125psぐらいだった車重は約180kg程度で外見はノーマルのためパワーウエイトレシオは
1.450くらいだ僕も何回かサーキット、臨海(内緒だよ!)で乗ったことがあるが強烈に速い1速では前かがみにならないと前輪が簡単に浮いてくる2速でも気を抜くとウィリーをしてしまうのである。
最高速は鈴鹿で270km/hくらい出ていたと記憶する。

 しかしワークスマシンのRVFはこの当時からずば抜けて速いのである。
車重135キロ、130psとしてもパワーウエイトレシオは
1.038となる。
車重135キロはレギュレーションの最低重量であった。

ワークスマシンはパワーウエイトレシオ1.0以下にしているのだ、当時は750ccでは、このあとに出るRC30のスペシャルエンジンでも142ps程度が限界だった。
’93年モデルではシリンダーヘッドのインレットポートが20mm短くなりポート形状もSTDより細くなっていたのだ。’93年モデルはワークスマシンと同じシリンダーヘッドが提供されていたのだ。

このエンジンは、組み上げる前に0.4mmの面研をおこない圧縮比を上げたのだ。ピックアップもすごく良い、タコメーター(エンジン回転計)が付いていかないほどであった。それにRAM AIRを採用していたのでストレートでは時速200キロを超えたあたりから加給されるので鈴鹿のストレートエンドでは175マイル(約282キロ)出ていた、更に面研を0.2mm追加して最終的には合計0.6mmの面研をして圧縮比を上げて中低速の立ち上がりを強化したのだ。

レギュレーションの変更で1994年からRC45というマシンに変わるのだがH○Cが提供していたコンプリートエンジンは155psしかなかったのである。
最終的には172ps(ラムエアー圧なしで)出したのである。
このエンジンは、最終的に2基を某H技研鈴鹿製作所社内チーム(鈴鹿レーシング)がお買い上げすることになったのである。
某H社が外部のエンジンをお買い上げするのは今回が初めてのことであった。
今後もないと思う。

話を大島正に戻そう。
レースの事も、又の機会に記載することにしよう。


 そして翌年に彼からメカニックをしてもらえないかと言われなければこのチャンスがなければ僕のキャリアは変わっていたと思う。彼からの話が来る前に思っていたのは
「結果が出ないからもうレースは辞めて、普通の仕事をしないといけないな」と自分自身が考えていたからである。

 大島正のチームは某文房具メーカーがついているとのこと、世界的にも有名なメーカーである。開幕戦の鈴鹿2&4レースが3月21日(記憶では)の土曜日に午前中の予選で僕自身がチョンボをして予選中に何度もピットイン原因はキャブレーターのダイヤフラム(薄いゴム製)の部品の一部がうまくハマっていなかったのである。タイムは余裕で出したのであるが最低周回数3周をクリアしていなかった、最低な失敗である。

予選は午前と午後に二回あったが1986年3月21日の正午あたりに大型の寒冷前線が鈴鹿地方を横切ったのである。
鈴鹿のコースはあっという間に積雪30センチくらいになってしまった。
午後からの予選は午後3時からである大雪は30分ほどで止んでしまったので午後からの予選までにはコースに溜まった雪がとけるであろうと僕は願っていたがコース上雪は溶けることなく午後からの予選は全て中止となってしまったのである。

つまり予選落ちという結果になってしまった。

そしてスポンサーの話は手形詐欺であることが判明してチームは解散したのである。

4月初旬のこと、そして僕は大島正と二人で全日本選手権に出場することにしたのだ鈴鹿での失敗はに二度としないと誓ったのである。
 
TT-F1クラスをプライベートで全日本を回るしかもマシンのメンテナンスをしながらアルバイトもするとっても貧しく貧弱なチームの開始である。
マシンは忠実にメンテナンスをしてトラブルを起こさないと誓ったのである。
そして6月の鈴鹿200kmでは大雨の中、
6位に入賞したのである。

この頃のレースは国内4メーカーが各4台程度のワークスマシンを走らせている勘定すれば16台程度が走っている。

その中でこの年の全日本選手権TT-F1クラス
年間ランキング10位を獲得したのである。

翌年に彼はブルーフォクス(H○C直下のチーム)というチームに入り1989年と1990年に鈴鹿8時間耐久レースで2年連続2位に入ったのだ。
また、1988年の菅生レースではポールツーフィニッシュを果たした。

僕はその頃、東大阪にある二輪部品商社でTT-F1、TT-F3のクラスを担当することになりこの菅生のレースでは7位に入賞していた。

いろいろ、あったこの頃の話はまたの機会があればアップすることにしよう。


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第4章 3ヶ月で全身麻酔手術が6回!

 ICUから一般病棟(整形外科)の個室に移たのは30日程経過してからである。
ICUにいる時に最初の緊急手術と2回目を受ける。1回目は患部の掃除と血管の縫合と延命処置で終わってしまった。手術が終わると両太ももにピアノ線みたいのが横方向に一本づつ刺さっている。そしてワイヤーでベッド後部におもりが付いていて足を引っ張っているこれは骨と骨との間に隙間を開けるためだ。
骨と骨とが当たると悲鳴が出るくらい痛いのである。

2回目は左足の手術である10時間くらいかかった。まず左大腿骨側面から鉄(チタンではなかった)の杭を打ち込みボルト4本で固定する。

左下腿は2本とも骨が折れているので創外固定という方法だった。
創外固定とは粉砕骨折して残っている骨をちょうど串カツのように串を骨にさして本来あったであろう場所に串カツの串をジョイントでつないで固定する方法である。この時も骨と骨との隙間は5ミリ程度開けているのである。この2回目の手術は7月末くらいであった。

7月の最後の日曜日には鈴鹿8時間耐久レースがあるとても自分のチームが気にかかる決勝中に1時間毎のリザルトが出る。それを病院にFAXして受信してもらえないかとお願いするが看護長からひどく怒られた記憶がある。

 
耐久レースが終わった翌日にスーツ姿の40才くらいの男性が僕を訪ねてICUに来たのである。しかし、顔はなんとなく見た顔であるがでも名前が出て来ない家族と言って面会に来たといっていた。
誰だろう思い出せない・・・


 すると鈴鹿8時間耐久レースの僕のチームの写真を10枚程度差し出したのである。あ~名前がわからない、その男性に僕が聞いた
「失礼ですが、記憶が飛んでしまっていてどちら様か思い出せないんです」男性が『○技研の○田です』とあっH技研本社のモーターレクリエイション推進部の偉いさんだった思い出した。

 この部署から僕のチームやF1とかの資金提供があるのだ。

最初は僕が即死したということがすぐに連絡があったというサーキットでも即死の話が広がっていた有名人になったものだ。事故した日の新聞の夕刊を見て重体となっていたらしい。その日のテレビでは11台玉突きで大きく取り上げられて翌日もテレビで事故の話が出ていたらしい。まぁ、その点を言えば有名人になった訳である。

面会は家族限定で15分厳守であった。その時間内で〇田さんは耐久レースの説明をしてくれました。そして、時間が来て看護師さんがお時間ですと「ありがとうございます」と僕がいうと『しっかり治してまたレース界に必ず戻ってくるんだよ』と言いながらICUから帰る後姿を見て僕は涙がぽろりと流れたのであった。。

 1か月が過ぎて一般病棟の個室に移る。
隣の部屋がにぎやかだ
『痛い~、痛い~、いいい痛い~』の昼夜問わずの女性の声が響きまわるまだ僕はいうほど痛さはなかったのである。看護師さんに隣の部屋の女性は大怪我しているの?と聞いたら、骨折しているだけという痛いというからには痛いんだろうなと思いなんとなく大変な部屋の横に来ちゃったなと・・・

それからだった本当の痛みが僕を襲った。
痛いという声すらでなかったのである看護師さんは痛かったら言ってね痛み止めとして一日2回まで痛み止めの注射が先生から出ているからと最初の数日は我慢していたのですがピリピリ、針が数十本さされてるみたいな激痛がはしる、我慢できずに看護師さんに
「痛み止めの注射打ってください」とお願いする。
注射する時間はお昼ごはん食べてから午後2時くらいという、二回目は寝る時間過ぎてからというその意味は最初わからなかったのである。昼食を終えて午後2時に初めての痛み止めの注射をされる筋肉注射である肩の筋肉を強くつまんで注射をされるまたその注射もとても痛い
「アッいた!」と叫んだ、小さな注射器であるから痛さは少しのあいだであった注射されたあとをよく揉んでと説明されと同時に足からの痛みがまったく消えてしまった、そして約5分間すると痛さは一切なくなり春の日だまりの中にいるような感じがして15分ほどで4時間ほど熟睡できたのである。

 目が覚めると1分くらいは痛みがかんじないのである、しかしすぐにまた強烈な痛みがやってくる。次は就寝時間過ぎてからだと思いつつ早く痛み止めの注射の打つ時間が来ないかなと時間ばかり追いかける。
その注射が
『モルヒネ』であることが説明されたのは体中に黄疸がでてくるようになってからだった。痛み止めの注射が直接原因ではなく輸血している血液量が何十万ccを超えていたため肝臓が拒否反応を起こしたところにモルヒネを打っているから余計ひどくなっているという。

本当に肌、爪、全身が柿色だった。

 請求書が僕に看護師さんから手渡された、治療費は全額労災でまかなえるはずだ何の請求書かなと思い金額を見ると
「よよよよ、よんじゅうきゅうまんえん」そう49万円の請求であった内容は個室料(差額ベッド代)一か月分である。
大部屋だったらかからないと説明を受ける、しかし一日12,000円程度ですぐに大部屋に移してくださいと看護師さんにお願いするが
『nimoさんはまだいつどうなるか分らないので今は個室でないとだめなんです』と説明されるが、請求書は様態を悪化させるものだと初めて思ったのである。
大部屋に移ったのは9月になってからである。

えっ、もう命が助かったんと違うの????
と一瞬深く考えてしまう。

 当時の全身麻酔は目が覚めると恐ろしく寒さが襲ってくる。
人工呼吸器をつけたために喉がすごく痛い、そして喉がからからに乾く、看護師さんに「お水もらえないでしょうか」とお願いすると氷一欠片だけ口に入れてくれる。しかも、一時間に一回だ。
寒さはどんな感じかと言うと、電気毛布を二枚掛けれくれるがそれでもガタガタ震える。
寒気が取れるまで約8時間から10時間程度かかったのである。

 5回目の手術は左の下腿の手術であった。右大腿骨は今でも傷口がなんか膿が出ているような気がする。左下腿は創外固定を外し鉄の杭が骨髄に打ち込まれていた。そして、ギブスがしてあったのである。この5回目の手術のあとは悲惨であった。体力も段々なくなって手術後の経過がよろしくない、食事なんかは取れる状態に無いのだ、しかもいが痙攣を起こしてもどしてしまう胃液だろうか鮮明な緑色の液体ばかりが出てくる。看護師さんは知らんふりだ多分こうなることは分かっていたのだろう。二週間してから左の下腿に巻かれたギブスをはずしたそして膝を曲げるリハビリが始まったのだ。このリハビリは専用の機械である。段々と曲げる範囲を広げてゆくのである。
 5回目の手術では、僕は知らされていなかったのだが裂けた傷口約20センチから25センチはあろう部分の壊死始まっていたのである。その壊死の部分を大きく取り除く手術も行われていたのである。

 そして、6回目の手術の時が来た。どのようになっていたかと言うと体温が38.5℃から一向に下がる気配がない、フラフラの状態で看護師さんは両脇に氷枕を入れてくれるが30分と持たなかった。先生の話では点滴を2ヶ所から入れているという。その一つに心臓に一番近いところを切開して心臓のすぐ際に点滴の管が刺さっていた。そこから細菌が入り熱が出ているのでは無いかという、その管からはビタミン剤と抗生物質などが入ったものが注入されていてたまに輸血等もされていた。その管を外して様子を見ると、一週間程すると体温が37℃を下回ったのである。この6回目の手術が成功したら二週間したら堺に帰れるというではないか、気合が入った。

 この最後になる手術では、僕に内緒で家族と医師、看護師だけで話し合っていることがあった。まだ右大腿骨は2ヶ所で折れたままである。そこに鉄の杭を骨髄の真ん中に打ち込みボルトで固定するが骨髄に菌反応が出ており5回目の手術だは杭を打ち込むことができなかったのである。そして6回目の手術で骨髄に菌反応があれば右足を根本から切断という密談がされていたのである。

5回目の手術の時に壊死した筋肉を大きく取り除いたので6回目の手術では菌反応が出なくなり杭を打つことができて足を切断することなく手術は終わったのである。

 手術の翌日から、リハビリが始まる。第一回目は
「ギャ~、ウウ、いてぇ~」と約一時間に渡り関節という関節を曲がらないところを大きく限界まで曲げられたのである。これが、しばらく続くのかなぁやだなと思いつつリハビリ室を出たら、たまたま救命センターの看護師さんと遭遇したのだ看護師さんは『nimoさん、nimoさんだ!、ここまで回復したのね運ばれてきたときはそれは大変だったのよ!!!』と距離は少し離れていたのだが向こうから駆けつけてきてくれた、とてもnimoは嬉しく思ったのである。

リバビリの強烈なプロレス技は最初の一日だけであった、人は入院すると筋肉が弱り回復するのに3倍近くかかると教えられた。


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第5章 10月堺まつりの日に堺へ転医した

  神奈川県伊勢原市にある東海大学医学部付属から堺市立病院へ転医する日がきたのである10月の中旬の日曜日この日は朝早くから目が覚めていたそう堺に帰れる日だからである。
この病院はとても素敵な病院だ看護師さんは平均すれば20代半ばである。しかし、夕食に出た四角いポヨポヨとした物体???見たことがなく看護師さんに
「これはなんという食べ物ですか」と聞く、『それはハンペンょ』「ハンペン・・・・???」無言が続く・・・郷が変われば郷にしたがへとオカンが言っていたなと思い出し勇気を出して食べてみる。その様子がよっぽど面白かったのか看護師さん全員に伝わる。そんなのが楽しかった病院をあとにすることになる。

見送ってくれたのは主治医と看護師1名であったもう少したくさんで見送ってくれたら嬉しいなとも思いながらレンタカーのハイエースで帰ることになる。
厚木インターから乗ると大阪まで400キロくらいだ。
午前9時に病院を出て阪神高速の堺インターに出たのはちょうど堺まつりの布団太鼓のパレード中だった太鼓自体は見れなかったのだが太鼓の音が良く聞こえてこれで堺に帰ってきたのだと心から安堵した。

 さて、堺市立病院では気持ちいいくらいムチの洗礼を受けることになる。

紹介状は簡単な書類3枚程度であった堺市立病院の主治医になった医師は僕に
『歩いてみろ歩けるやろ』といきなり強い口調で言い放った骨折したのが7月3日で今日は10月15日(だと思う確信はないが・・・)最初の手術してから3ヶ月である。

通常なら松葉づえで歩いているはずである。僕が怠け者ととらえられたのである。当然、リハビリの先生も同じ扱いだ。東海大学病院の先生は自分で歩いて新幹線で大阪に帰ろうなと言ってくれた。堺病院とは大きな違いだ、そして堺病院に転移してからも体重の減少が続く、事故前は身長173センチ体重67キロであった堺病院で最低体重を記録する45キロである。これには理由があるまだトイレには行けなかったのでベッドの上で済ます形になり中には
『なんか臭いな』と言われたりして食事をほとんどできなかったのである。

僕は頑張って車椅子からトイレの専用トイレに移れないかと一週間ていど何度もトライした。そしてトイレで用を済ますことができてからである体重、体力が戻ってきたのは。

 リハビリでは同じく手痛い扱いをされる、初めて松葉杖を使い歩行練習をした時にお昼ご飯を食べてすぐに
病院を脱走したのである。
11月末のことである。
目出したのはnimoの自宅マンションである、途中で叔母さんの家がありそこで休憩してお茶を飲ませてもらいまた歩きはじめる。
病院から大浜中町にあるマンションまでである距離は800mくらいだと思う、健常者なら歩いて15~20分程度の距離であった、しかし僕には遠く感じた時間にして2時間かかった。

その頃病院では行方不明となって大騒ぎになっていたという。


ザマァ見ろ!


それから、脱走したと看護師さんの間で有名になる。
そして、リハビリの先生の扱いも突然変わり何故か僕の経歴を誰かに聞いたような感じがしたのである。

 人間とは不思議である。一つ回復に向かうと次々に良い方向に向かう。

退院したのは翌年の1991年4月末となる。



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第6章 刑事裁判の証人となる

 さて、事故から10ヶ月程経って年が変わり1991年5月にYA氏の裁判が大阪地方裁判所で行われた。僕は被告の証人として被告側代理人から呼ばれたのである、ちょっと疑問があったYA氏は自動車整備士見習いとしてある会社に転職していた。民間整備工場である。そこの社長は会ったことのない僕にいろいろとこれからの仕事を勧めてきたのである。コンピュータのプログラムを作る会社とか色々である。

どうしてそんなに勧めて来るんだろう守口の会社であったためその周辺が多い、通勤だけでも大変だなんで?

 そして、刑事裁判の証人に立つことに。

被告代理人は
『あなたがこの横転した車の管理者ですね』

「管理者ではないです」

『管理者であったと聞いています裁判長写真を御覧ください。』
『この写真には車のタイヤが写っています法定以下にタイヤの溝がすり減った状態であります。』


写真見てもタイヤの溝が無いとは見て取れなかったそして証人席にいる僕を指さして

『事故は管理者つまり証人席にいる車両管理者の管理不足により起こったものです』

僕はひどい弁護士だななんと言うやつだ。ムカついてきた!

この日の裁判はもちろん刑事裁判である。

業務上過失傷害致死罪から無罪を取るために責任を僕に転換してきたのである。この業務上がつくのとつかないのとは大きな差がある。

YA氏(運転手)には僕は同情していたのである。

しかし、僕は裁判の証人に呼ばれて車両管理者に祭り上げられ責任転換とはとんでもない話である。

裁判長に
「車両はレース期間中に使用していましたが、その他の期間は工場で使用していたし、私自身はオートバイレースのメカニックとしての契約でありこの車両の管理をするとの契約はしていません。そして、事故の時にタイヤの溝が無かったと被告弁護人が主張していますが溝は十分にありましたし写真ではタイヤの溝が何ミリ残っているかの判断はできません。」といい証人喚問が終わったのです。

そして3ヶ月が過ぎて判決の日が来た。
刑事裁判も民事の裁判も一人あたり5~10分程度の時間で次から次へと判決が下る。
ほとんど別の入口から手錠をされた容疑者が入ってきます。
ここで無罪または執行猶予がつくとその場で手錠が外される。
実刑がつくと刑務所送りになる。

テレビで見るのとは、ずいぶん違うなと思った。

しかし、被告人は判決時間に遅刻してきたのです。
裁判官は肩肘をついて

『あのな、判決の日だよ遅刻はするな!』
そしてそのままの格好で判決をいいます。

禁固1年6ヶ月、執行猶予3年。

有罪判決が出たのです。

 前に述べたが被告が働く自動車整備工場の社長が僕にいろいろと世話をする理由がわかったのである。
トランスポーターには車両保険に入っていた約500万円程度だ、本来なら保険金を支払っている会社側に入るのだが保険金は自動車整備工場の社長のポケットに入っていたのだ。
そう、会社に対しての売掛金があるとかで怪しい理由である。
そのへんはnimoは関係ないのにバレるのが怖くてnimoに恩の押し売りをしてムニャムニャにしたかったのだ。

怪しい話には必ず裏がある、そう表もあれば必ず裏もあるのである。


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第7章 あるチームから鈴鹿耐久レースに招かれる

 1991年の鈴鹿8時間耐久の二週間前に以前メカしていたライダーから電話がある。『nimoさん、時間あったら耐久レースを見に来てくれへん』と笑いながらいう。
「僕はなんにもできないよ!!!」『来てくれるだけでいいねん』、「やだ行ったら罠にはまるから」『椅子に座っていてくれたらそれだけでいいねん』と繰り返す、こんなん行ったら絶対に罠にハマるなと思いつつOKを出してしまったのである。

そして耐久ウイークに入って水曜日の練習走行で第2ライダーが1コーナーでノーブレーキでクラッシュ!!!


モリワキのコンプリートマシン

セッテングが全然でていない。
フレームの合成が足らなくてセティングが大変だった。



鈴鹿サーキットのストレートでノーブレーキで
1コーナーに入るとこうなるのだ!






全損でノーマルの車体を急遽手配することになる。

チーム監督にびっくりするような事を、このあとお願いされる。

この年から
NL○BというエンジンがサテライトチームにH○Cから供給されたのだ1,000万円するエンジンだしかもサテライトチームは片手の指程しかないもしこのチームが使っていたことがバレたら偉いことになる。

このエンジンを使いたいから手配出来ないかな?

普通は無理である。

 そして、エンジンのセッテングと車体のセッティングときた、今日は水曜日である。
残されたのは木曜日の練習走行だけである。

nimoはピットを歩き始めた、


誰かエンジン貸してくれる人はいないかなと!!!


そしてあるチームが予選が無事に終わったら○○○万円で貸してもいいよとnimoさんだからしょうがない。

エンジン壊したら1,000万円ね!!!

まぁ、エンジンの手配は案外早くできた。

あとで、H研究所の方にバレてしまう

『○○さんのチームにはこのエンジン出してないんだけどな?』

「エンジンブローして借りに行ったらこのエンジンしかなくて・・・・」

ものすごく苦しい言い訳であったが研究所の方はそれ以上は言わなかったのである。


監督に現金1,000万円を即金で払えるようにその日のうちに用意させたのだ。

問題は明日一日で車体のセッティングを出して予選通過させることである。

 
もう完全に罠にはまっているのだ!

 nimoは動くことができないので、チームのメカに指示をして明日の練習走行までに車体を仕上げてセッティングは実際走行しないとできないので3周目にピットインさせながらセットアップを始める。
木曜日の練習は午前午後とそれぞれ50分であったと記憶する。午前中にほぼセッティングを出さないとちょっと苦しい場面になる。午前中に約80%くらいセッティングを終えてしまいあとは午後からの練習走行でのペースを上げてのセッティングとなる。

午後からのセッティングはタイムを予選通過タイムを確実に出せる予定で始めた。66台が予選通過なので目標は30~40番手である殆どがリヤクッションのセッティングに時間を要する、タイムが上がれば当然セッティングも変わるのである。まぁ、予選通過が目標であるためnimoにとっては楽であった。

最初は見ててくれるだけでいいと言っていたのが
やはり罠にハマってしまったのだ・・・


 このチーム2台エントリーをしていた。クラッシュした方の車両はとりあえず予選を通した。
nimoは本来見ているだけの立場である。ところがもう一台のライダーがセッティングがでなくて予選通過が厳しい。何を勘違いしたのか僕に食って掛かる
『そっちばかり見ないでこちらのマシンもセッティングだしてや!』
僕は
「なんで見ないと行けないの?僕は見に来ただけだよ」
それにその口の聞き方なんとかせいや!
もう一台の車両は一切、手をかさなかった。
言い方が気に入らなかったのである。

「俺を誰やと思っているんや!」
この言葉
その後よく使うようになります。

そして、予選通過してスペシャルエンジン
NL○Bがピットに運ばれる、載せ替えはピットクルーに指示をして僕はライダーと一緒にホテルに帰り食事してゆっくりと休む。しかし、明日の決勝レースの前にフリー走行がある。エンジンのセッティングと車両のセッテングの重要な仕事が待っているのである。

 決勝の日が来た。フリー走行が開始される。その前にエンジンのセッティングは大体であるが僕が指示して80%近くを走らずに終わらせてしまう。
スペシャルエンジンは上よくが回るらしいそこで減速比を変えることになる。

H○C担当者の話ではストレートコントロール線辺りまではあまり変わらないという。

ライダーに聞くと、すごく馬力が上がっているとは感じなかったらしい。

フリー走行が終わりそこからの決勝スタートは結構早く進む。あっという間だ。

午前11時30分にルマン式スタートとなる。

スタートだ、もうこれでトラブルが合っても僕にはどうすることもできない、このチームは完走したことがなかったのだ。小さなトラブルがあったがなんとか完走はできたのだで監督もスポンサーも大変喜んでいた。

 それから、僕は仕事を探し続けた。
機械設計なら自信があったレースはどうしても力仕事になるのでこの時は選択していなかったのである。
5社ほど問い合わせするが怪我の事を話しすると怪我が治ってから又電話してほしいと言われる。断り文句だ!


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第8章 スポンサーがついた

 仕事をどうしようかと思っている時に耐久レースで手伝いをした監督から連絡があり1992年と’93年の二年間を走らせてもらえないかとお願いされる。少し考える時間が欲しいし予算も考えないといけない、少ない予算は自分の首を締めることになる。概算予算を計算すると年間1億円という答えが出た、それを監督に伝えてスポンサーの回答を待つことになったのである。
すると、簡単に答えが帰ってきたのだ、いるだけお金だすとの回答であった。

 そこにはいくらお金があってもチームの実績が無かったのでサポートチームとして認められないし、スペシャルパーツも入手が不可能であった。

そこで、僕が必要だったのである。

 某H技研もそうだがH○Cの担当者には信用があったのである。

 僕をチーフとしてサポートを某H技研モーターレク推進本部に問い合わせすると、○田さん(病院にお見舞いに来てくれた偉いさん)にお願いできるかと問い合わせすると
『はいOKですよ、部下に伝えて準備しときますよ』と簡単に了承してくれたのである。

 事故にあってから1年6ヶ月で骨髄に入っていた鉄の杭を抜くことになった12月に入ってのこと下半身麻酔で骨髄に入っている3本の杭を抜いてしまうのだ。
この時信じられない医療事故に合ってしまう。杭と骨とを固定しているボルト各2本ずつ止められているのだが1本を忘れてボルトが締まったまま杭を抜かれてしまったというか杭は抜けることはなく骨に楕円形の穴が空いてしまったのだ、現在だったら訴訟騒ぎになっているにちがいない。そのせいで高熱が出てしまい予定より1週間入院が伸びてしまったのである。医師は絶対に謝罪はしない全身麻酔ならわからなかったが下半身麻酔でしかも5時間もかかり後半は麻酔が切れてしまい麻酔無しでの手術になってしまったのである。

 年が明けて4月に株式会社を設立した。お金が勿体無いのですべて自分で定款作成、法務局への登記も自分で行ったのである。約12万円程度で登記が完了した資本金1,000万円の株式会社のスタートである。

そして同時に病院で症状固定の診断書をもらい東○○労働基準監督署に後遺症の認定を提出したのである。

 会社設立は縁起担いで4月1日とした。

最初の仕事はもちろん耐久レースで完走20医以内が今年の目標であった。
結果は19位となりなんとか目標はクリアーをしたが約2年間のブランクは僕の第六感を曇らせたのである。

 そして一部上場をしているサスペンションの会社
SH○WAに知り合いがおり彼から仕事をしないかと誘われたのである。仕事はワークスのサスペンションの部品を加工する仕事であった。いきなりチタン合金の仕事である。
フロントサスペンションとリヤサスペンションの中身はチタン合金の集まりであった。まぁ一番高い部品であった、これをコストダウンするための言わば罠であったことが二年してわかることになる。

大企業が零細企業をいじめたら駄目なんだよ!

 そういった形であったから、スペシャルクッションを作ることができたのである。

もちろん作成するにはH○C、H研究所の承認がいったわけであるがこちらの方は全く問題はなかった。むしろ嫌がったのは
SH○WAの方であった。


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第9章 そんな、アホな!

 病院で診断書を書いてもらい東○○労働基準監督署に送付したあと診断したいので監督署に呼び出される。なぜか堺の労働基準監督署も呼び出された監督署も2階に労災障害の部署があったのである。これは、階段を登ってきたら等級を振り分けるためにしようしていたらしい。現在はエレベータや事務所は1階に変わっているが当時は信じられない審査をど素人で医師でもない職員が等級を決めていたのである。

 職員は僕に
『この机の上に時間かかってもよいから立って』という、下から傷口を見るのかなと思いつつ壁に張り付きながら苦しいがなんとか立ち上がった、職員はそれを見て『はい、ここに立てたということは12級ね』と平然に言い放ったのである。
「そんな、アホな!」
と言っても聞く耳は持たない労働基準監督署の職員だった。

 しかし、12級は無いだろうと僕は思った。当たり前である、そんな等級の決め方なんてあるかと怒りが立ち込めてきた。知り合いの弁護士に相談すると異議申し立てを自賠責保険にしたらどうか、あと自分で書類を作り内容証明郵便で送れと教えてくれたのだ。労災と自賠責保険は国が運営している、よって障害等級の詳細なども全く同じであった。そして内容証明を作成して内容証明郵便として郵便局から送ったのである。

再診が住吉の大阪府立病院で行うと連絡があったのは一年後であった。

 この再診を受けるために事故当時のレントゲンを貸し出してもらうため東海大学医学部付属病院に行ったである。主治医だった先生の診察をまち順番が来たのである。
『nimoさん?あのnimoさん?』と言って当時の担当していた医師2名を呼び『nimoさんはね、僕らはもう一生車椅子と思っていたんだよ』と・・・・
傷口を見せてと、それで今日はどうしたの
「はい、労働基準監督署で障害等級審査が納得できずに異議申し立てをしてその再診に事故当時のレントゲン画像が必要なんです」と説明した。レントゲンは永久保存になっているため持ち出しが禁止だがそうゆう理由なら貸出しますよ。診察終わったら時間が空いているので一番良くわかる画像を10枚程度探しますと主治医の先生0の返事をもらった、しかし300枚以上のレントゲンを撮っているので3時間程度はかかったのである。待っている間にお世話になった病棟に行きあの時は大変お世話になりましたと頭を下げた次第です。

 そして間もなく自賠責の再診の日が来た。
場所は住吉区万代にある大阪府立病院の整形外科である、たまたま担当医師が整形外科の部長先生であった。僕が異議申し立てをした経緯を話して東海大学医学部付属病院からレントゲンを見せる、すると自賠責の担当者が
『現在のレントゲンも撮ってください』と先生にいうが反対に担当者が先生に一喝される『人間が一生浴びる放射線の何倍もの量を患者さんはもう浴びている、これ以上のレントゲン撮影の必要はない』とおっしゃってくれたのである。
そして、僕の靴の裏を見て思ってとおりで骨が曲がって付いている。さぞかし、痛い思いしただろうと言ってくれたのであった。一喝された担当者も反省したようだった。
 そこから再診の診断が出て等級の変更があった右足7級、左足8級で併合6級と決まったのである。

自賠責が決まると労災は連動して同じ等級になる。

12級と6級では、何倍も状況が違ってくるのである。

そこから、本当の仕事の辛さを経験することになる。
そのことは又の機会があればということにしょう。

知識は役に立つ、邪魔にはならないのである。



僕はこの曲がとても好きである。
入院しているときや辛い時にとても励まされて歌詞である。



『男は明日はくためだけの靴を磨く』

伊勢正三 作詞・作曲

夕暮れの街並が 少しずつ暗く なってゆく
ひとりの男が、今日も 坂道を降りてくる
アパートのドアを開け、手さぐりで灯をつけた時
今日一日が ふと目の前を通り過ぎる
ひとり暮らしは 気楽と 言えばいい

過去のことは 思い出さず、これからのことは
解らない 男は明日はくためだけの靴を磨く
その日暮らし していても、ほらこんなに
幸せだと大きな声で 笑える日もいつかはくる
時の流れに 身をまかすのもいいさ

やさしい女が どこかにいたような 気がする
そんな気持ちに、たとえ答えられなくても
男なら、恋心をさりげなくポケットに入れて
そのあとでそっとどこかで取り出してみたとき
熱い思い出 静かに消せばいい

男なら 夢のひとつ、くつがえすこともできるし
夢からさめたら また新しい 夢を見ればいい

窓辺で 枯れてゆく、一輪ざしの花でさえ
この部屋の中で、せいいっぱいに 咲いていた
そんなちいさな 生きざまをみつけたい



追記、

 1992年僕が会社を設立してすぐの話である。

1990年に18才の天才ライダーを見つけたのだ。
彼を僕のチームでノービスクラスで走らせることにした。

初戦の鈴鹿サーキットで行われたSP400(400ccのノーマル車で改造は禁止)クラスでの予選はトップを取ったのである。決勝では転倒してしまったのだが素晴らしい走りを見せつけた。

某H研究所のチームであるブルー○ルメットの親分が僕のところにやってきて彼の話をしたのである。

 帰ったら彼の事をその車両の担当者に伝えるとの事だあった。
僕はその時、将来ワークスライダーの道が開けるかなと・・・

それから、すぐに僕は東名事故に合ってしまう。

 1992年3月に突然僕の会社に彼が訪れた。

nimoさんが仕事復帰して大変うれしく思うと彼は言って丸一日事務所の改装を手伝ったくれたのだ。その日の夜に彼を連れてお寿司を食べに行った、そしていろいろと話をしたのだった。

 彼は数日して『あんな美味しい、お寿司は始めて食べた』と嬉しそうに僕に電話をしてきたのだった、それから数年して風の便りに彼の噂を聞いたのだ。

 
彼は僕と再会してから数日して電車に飛び込んだのだった。

僕は思う、どうしてそんなに若くして自ら命を断ったのか。
なにか相談したいことがあって僕のところに来たのではないのかと。

彼しか分からないかもしれないが・・・・・

彼に捧げるこの曲を



『春に想えば』

作詞:喜多條 忠
作曲:南こうせつ


峠越えれば 風は優しく
友と遊んだ 故郷の 川
おぼろ月夜に 唄を歌えば
強者どもの 夢の 後
あっ、いつからか大人になって
泣いて笑って 嘘つきになって
抱いて抱きしめて 強く抱いておくれ
心が 痛いから

寒い夜だった 君と出逢った
同じ屋根の下夢を繋いだ
熱いコーヒー 思い出の香り
いつか安らかに ここで眠りたい
あっ、君がいてそして僕がいた
月日は人を 許して行く
抱いて抱きしめて 強く抱いておくれ
心が 迷うから

あっ、人生は小舟のように
揺られ揺られて どこえ行く
抱いて抱きしめて 強く抱いておくれ
今夜は 泣けてくる



           





この物語はたった一年間の記録である。
人生の一瞬の出来事である、人生はとても長い道であると僕は思う。

この長文をお読みいただきありがとうございました。


nimo 2019/02/20



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