堺市鳥瞰図


堺市鳥瞰図 


昭和10年(1935年)
    吉田初三郎 画
    堺市博物館 蔵
    イオンモール堺鉄砲町 複製展示
 



 「堺市鳥瞰図」は、大正の広重と呼ばれた吉田初三郎が昭和10年に描いた作品です。絹本彩色で横327センチ縦75センチの大きなもので現在、堺市博物館の所蔵となっています。
 この鳥観図は、吉田初三郎が当時の堺市長に懇嘱されて単に案内図としてだけでなく後世のために昭和初期の堺を伝えたいと完成されました。
戦前の堺を一目瞭然に知ることができます。

イオンモール堺七道鉄砲町展示





 

 

 

 

 


 

赤線枠内が少林寺町西3、4丁と新在家町西3、4丁

現在の大浜灯台。当時からは少し移動はしていますが灯台本体は当時のままです。
明治10年(1877年)旧堺港に建築されたさ11.3m。現存する木造洋式灯台としては、福浦灯台、旧安乗埼灯台と並ぶもっとも古い灯台です。
大浜灯台を東から西(大阪湾)に見た風景。
※大浜灯台へは南海本線堺駅下車、大浜公園方面へ歩いて10分。

現在の旧堺港

 

旧堺港を西に見た風景


 


 

 

旧堺港に陽が沈む瞬間


海岸通

あなたが船を選んだのは
私への思いやりだったのでしょうか
別れのテープは切れるものだとなぜ
気づかなかったのでしょうか
港に沈む夕陽がとても きれいですね
あなたをのせた船が 小さくなってゆく

夜明けの海が悲しいことを
あなたから教えられた 海岸通
あなたの言う通り 妹のままでいた方が
良かったのかもしれない
あなたがいつかこの街離れてしまうことを
やさしい腕の中で 聞きたくはなかった

まるで昨日と同じ海に波を残して
あなたをのせた船が 小さくなってゆく


作詞作曲:伊勢正三
1980年日本武道館ソロコンサート

※1975年6月5日、風のオリジナル・アルバム『風ファーストアルバム』の収録曲として発表された。1975年度のオリコンアルバムチャート1位。なごり雪、22才の別れの作詞作曲も伊勢正三の作品である。
「イルカ」がカバーをして大ヒットとなる。

なごり雪 (1977渋谷公会堂)
1974年3月12日リリース、かぐや姫『三階建の詩』の収録曲。オリコンアルバムチャート1位。

わかれ道(1975かぐや姫)

『22才の別れ』1977年渋谷公会堂LIVE

『置手紙』1977年渋谷公会堂LIVE

男は明日はくためだけの靴を磨く(1977年渋谷公会堂)

伊勢正三 作詞・作曲

夕暮れの街並が 少しずつ暗く なってゆく 
ひとりの男が、今日も 坂道を降りてくる
アパートのドアを 開け、手さぐりで灯をつけた時
今日一日が ふと目の前を通り過ぎる 
ひとり暮らしは 気楽と 言えばいい


過去のことは 思い出さず、これからのことは 
解らない 男は明日はくためだけの靴を磨く 
その日暮らし していても、ほらこんなに 
幸せだと大きな声で 笑える日もいつかはくる 
時の流れに 身をまかすのもいいさ


やさしい女が どこかにいたような 気がする 
そんな気持ちに、たとえ答えられなくても
男なら、恋心をさりげなくポケットに入れて 
そのあとでそっとどこかで取り出してみたとき
熱い思い出 静かに消せばいい 


男なら 夢のひとつ、くつがえすこともできるし
夢からさめたら また新しい 夢を見ればいい 
窓辺で 枯れてゆく、一輪ざしの花でさえ
この部屋の中で、せいいっぱいに 咲いていた 
そんなちいさな 生きざまをみつけたい

ほおづえをつく女(1977年日本武道館)

作詞作曲:伊勢正三

振り向きもせずに男は去った  女は半年泣き続けた
薄暗い部屋で  ほおづえをついたまま 
幸せな日々を 思い出していた
何故捨てられたのかも わからないまま 
女は半年 泣き続けた


新しい季節が女を変えた 出会いを求めて街に出た
髪を切り胸の ボタンひとつはずして 
化粧直して 女は生まれ変わった
お茶を飲みながら ほおづえをついたまま 
女は男をさがしつづけた


女はそっとタバコくわえた  男はすかさず火をつけた
かげりある女は  とてもきれいに見える 
思わず誰でも 手をさしのべたくなる
灰皿の中の古い燃えさしがまた
新しい炎で燃え上がった


数える間もなく時は流れた  振り向きもせず男は去った
なれすぎた暮らしに  女は甘えすぎて 
男の心にまで  ほおづえをついてしまった
夜空の星がとても美しいのは 
ほんのすこし光っているから

お前だけが(1977年日本武道館)


 

堺市の海岸通り

堺市旧国道26号線を現在も海岸通りとして名称が残っています。

北側の始まりは大浜北町の交差点から終わりは浜寺公園までを『海岸通り』としているみたいです。

もし、臨海工業地帯の埋め立てがなかったとしたら東洋一の砂浜が堺港から羽衣までを見通せるような観光地になっていたことでしょう。

筆者が幼い頃はまだ石津で汐井狩りをしていた記憶があります。