菊水の紋章

 家紋の多くは戦国時代の武将が用いた旗印に始まるといわれていますがそれ以前は皇族、公家の家を表す文様として用いられていたものです。

 

 菊水紋は「菊に流れ」ともいわれ、楠氏の家紋とされる紋であります。第九十六代後醍醐天皇の御代は南北朝いって天皇家が二つに分かれて争っている時代でしたが南朝の後醍醐天皇に仕えて戦功を挙げたのは河内の国千早赤阪村の豪族である楠正成公でした。後醍醐天皇は楠正成公を頼りにしていましたのでこの功績に対して皇族の紋である十六弁菊花紋(菊の御紋)の使用を許可されました。しかし、正成公はあまりに恐れ多いことなので半分を水の流れに隠すようにされました。ここで菊水の紋ができたといわれています。よって菊水紋を使用できるのは楠氏か或いは関係のある社寺に限られたのです。これらの例としては千早赤阪村の建水分神社、河内長野市の観心寺、大東市の四条畷神社、神戸市の湊川神社などいずれも楠正成公または正成公の子供である正行公に関係がある社寺に限られています。堺の町と楠氏関係というと正行公の孫である正吉は父正勝とともに河内金胎寺の城に立てこもりましたが逆に落城という時観心寺中院の俊覚という僧に切腹を止められて堺に落ち延びました。その後圓二坊智知と称して紺屋町(現・少林寺町西四丁付近)に慈光寺を建立し一門の冥福を祈られたとのことです。

 

 

 慈光寺は江戸時代の大火によって中之町東四丁寺町に移転し菊水紋を寺紋としています。また新在家町西一丁には多門山善宗寺があり現在の住職は高橋氏ですが以前は楠氏であったとのことで寺紋は菊水を用いられています。慈光寺と善宗寺との関係について慈光寺の現住職は特に無いといわれています。慈光寺の古文書は昭和20年7月10日の堺大空襲によって寺とともに焼失しているために正確なことは不明というのが本当のところです。したがって新在家濱と楠氏との関係を明らかにすることはできません。

 新在家濱には鮮魚商等が多かったためか布団隠額には鯛が跳ねる姿になっていましたが終戦後に八朔祭が斎行られることとなりこれに合わせて復活した復活したあなご屋仲、魚小売仲などが鯛の紋様を用いていて中向き、外向き、額付と様々に使われたいたためそれらと区別する必要性から改紋を計画する声があがり戦時中の楠正成を称賛する世相の影響かまたは太鼓仲の役員に楠氏の関係者がいたのかして菊水紋になったのではないかと思われます。

 

2017年(平成29年)現在

 


 木村幸雄氏の証言と昭和17年の八朔祭の写真により1936年(昭和11年)以前に菊水の紋を使っていたことが判明いたしました。
八朔祭は昭和20年は中止になったものの翌年21年には町内の有志がお金を出し合い太鼓台を修復してこの年の八朔祭には開口神社(大寺さん)に奉納したとのことです。
2017.08.25

昭和17年9月11日 八朔祭

 

昭和17年9月11日 八朔祭

 

木村幸雄氏10歳の時

「昭和17年9月11日 開口神社秋祭りの時に」との直筆が写真に記入してあります。

昭和 20年7月10日未明の大阪大空襲の爆風で新在家太鼓台は宙に舞い上がり地面に叩き付けられてバラバラになりました。

昭和21年には木村幸雄の父が営む造船所にて修復したということを詳しくお話して頂きました。




新在家ふとん太鼓 隠し額「菊水」の由来探索


堺市堺区新在家町西一丁1-4
多門山 善宗寺 楠木正成公所縁の寺院です。

 

 

多門山 善宗寺の横に菊水の御紋ががあります。

 

 

多門山 善宗寺へは、阪堺電鉄 寺地町駅か御陵前駅下車徒歩5分


写真提供:木村幸雄