組織運営の今昔

 新在家濱はもともと漁師の町ですから、だんじりにしても太鼓にしても漁師仲間に始まることは間違いないでしょう。この仲間という制度は戦後続くことになるのですが、これらの同業者の集団である目的の為に結成された団体を「講」と呼びます。祭礼奉仕に限られず大峰山参拝する大峰講、富士講、戎講、住吉講、観音講などいろいろな講が作られるようになり今で言う「サークル」のようなものでしょうか。

 人が寄れば必ず代表者がいるもので、特に祭礼奉仕には警察等に届け出が欠かせませんから講の代表のことを「講元」などと称し、講中でも比較的裕福な旦那衆、または年長の方がこれに当たられたといいます。新在家濱において講元的役割を担う人を「判人(はんにん)」といいました。文字どおり判をつく人であり諸々の届出書に責任者として名を記す人でした。仲間内であれば誰でもよいことになっていたようですがやはり特定の数人で輪番することが常だったそうです。時には同じ人が何年もされたということも聞き及んでいます。

 


 判人制が続く中で主となって運営に関わる人々をまとめることになり、若手を「十丁(じゅっちょう)」と呼ぶようになります。「十丁」という言葉の意味は不明ですが「十丁」と書いたようですからさしずめ「十丁組」という意味ではないかと思います。「人」も「丁」も同義に使われますので今でいう「実行委員」でしょうか。

 大正の初年から戦後を経て太鼓台保存会設立までは前にも出ている大峰講である「堺両郷宮組」が世話人となり前にも出ている大峰講である「堺両郷宮組」が世話人となり組織運営の中心的存在でした。

昭和35年頃



●太鼓台保存会の設立

 昭和四十九年十月第一回「堺まつり」開催に呼応して保存会が設立されました。発起人は津本良一、忠美楠松、髙田治雄、髙田一郎、髙田清太郎、坪重雄、日根野徳雄、嘉祥寺政一、忠岡茂、根田勝美、藤原鶴吉、大黒克己、西田昭二の各氏で協力賛同者として山本勇、杉坂友一、木村卯之助、瀧本福松、鹿喰久雄の各氏によるものでした。

 この後昭和五十二年、山本勇氏の提言によって青年會が設立され組織としてはこの二つが現在まで継承されています。特に青年會は平成十四年頃には会員数が七十余名にもなる大きな会になっています。保存会、青年會設立後両者をつなぐパイプ役として、また実働部隊として平成二十二年には現場責任者を選任してこれの代表としました。こうした三つの組織によって新在家濱の布団太鼓は現在まで絶えることなく支えられています。