新在家町の歴史

 この地域は太鼓蔵を設置している新在家西会館を中心に西三丁、四丁と隣接する少林寺町西三丁、四丁を中心に多くの会員がおります。

 

 

 この辺りは旧堺市街に含まれる所で、町割りの原型は元和元年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方大野道犬によって放火され二万の家屋や寺院を焼失しその後徳川家康の命により風間六右衛門が再興したもので元和の町割りといわれています。後世に細かな水路が埋められたり、小路が新しく造られるなど多少の変化が見られます。これらの知る資料としては元禄二年(1689年)堺大絵図をはじめ宝永四年(1707年)享保二十年(1735年寛政十一年(1799年)文化十五年(1818年)嘉永四年(1858年)文久三年(1863年)などに作られた絵地図が残されています。

 これらの資料をまとめた堺史によると、現在新在家町西三丁、四丁付近は新在家濱と総称されこの中には西二町の一部も含まれていたようです。しかし、西二丁より西側を全てを浜と呼んでいたのではなく各区画毎に町名を付けていました。例えば南鍋屋町、雪踏屋町、下六間筋などです。明治以降町名変更が行われるようになってもこの考え方は踏襲され東一丁、二丁といっても何丁目という番号制ではなく「東一丁」という意味合いを残しています。新在家濱区域にあった町名は篠屋町、駒屋町、矢五郎屋町、矢比ヤ町、出屋敷町、下筋、猟師町などです。またこれらの町名には別名を付する時代があり駒屋町を会所町、矢五郎屋町を笩屋町などと呼んでいたようです。この他に火吹町、センバイ町、十万小路などの町名もあったようです。

旧堺の町(1615年の大坂夏の陣以降の堺)

 

 

現在の地図↓

 

 

 

現在の地図に1615年当時の地図を重ねてみると

このような感じになります。

 

新在家濱の拡大図↓

 

が現在の仮設太鼓蔵の位置
が現在の新西会館の位置
が戦前の太鼓蔵の位置

筆者の母の証言から上の位置であることが判明いたしました。

 1945年7月10日未明(昭和20年)の堺大空襲時に太鼓台は太鼓蔵疎開の為(防火用地拡大の為太鼓蔵を取り壊し道を広げる)
筆者の父の家の庭(の位置が自宅であった)に蔵から出してあった。
太鼓蔵は焼夷弾の直撃を受けて焼損したとのこと。
太鼓台は直接の被害はなかったが爆風で宙に舞い上がり地面に叩きつかれてバラバラに損壊したとのことです。
昭和21年には新在家町の有志がお金を出しそれに倣って次々に町の人々がお金を出し合いバラバラになった太鼓台の修復にあたりこの年の八朔祭には担いでいたという。

 戦後、復活して残った太鼓台は3台であった。(戦前は開口神社の八朔祭は13台であったという)

 戦前の太鼓蔵は棒組をして組み立てた状態でしまえる大きな太鼓蔵であったといいます。

 

 さて、この新在家町とはどんな町だったのでしょうか。やはり派手ということもあって漁業関係者や魚市場関係者が多かったようです。文字の意味からすれば「在家」とは仏教用語でいう世俗にありながらの信者をいい反語は「出家」です。(何か訳解りませんが・・・)書いてあるとおり書きます。筆者
お坊さんを「出家」というのはここからきています。…以下、省略

ちょっと訳が分からなくなったのでまとめます。
堺市のホームページには次のような説明があります。

 

 

 

新在家町(しんざいけちょう)

 南荘にあった本在家町に対し、新しくできた町という意味で名づけられたと伝えられています。

堺市の地名の由来(堺市役所)

http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/jutaku/jutaku/jukyohyoji/chimeiyurai.html